死って
先日、「死」のイメージが
変わるお話を聞きました。
シンプルな一文字からは
寂しく悲しい喪失感や
もう元に戻れないという
恐怖さえ感じてしまうような
そんなイメージがありました。
ある写真家さんと飲んでいると
ペットとのお別れの話になりました。
「亡骸はその生き物が一生懸命生きた
この世での最後の形。
往生した美しい姿なんだ。」
動物の命は人間よりも遥かに短く
彼らを失うことで残された私たちは
喪失感でいっぱいになったり
最後の姿を想って悲しんだり
在りし日の元気な姿や楽しかった日を思い出したりして
とても辛くなってしまうものです。
そんな風に思う代わりに写真家のおじさんは
今もペットが一緒にいるかのように
あいつがいたらこんな風にするな、とか
こういう時こんなことしてたよな、とか
姿かたちはなくなってしまっても
奥さんと在りし日のペットの話で盛り上がりながら
今もペットと楽しい時を過ごしているそうです。
そしてこうも言っていました。
「人間に比べたら短い寿命だけど、
人間より転生のサイクルが早いから、
数多く生涯を楽しむことができる。
だから寿命が短いからって
かわいそうなんてことはないんだよ。」
もっと生きられたはずなのに、とか
かわいそうと思ってしまう気持ちは
残された人間のエゴかもしれません。
生き物の生涯を断片的に切り取って
わたしたち人間の人生の一部に
当てはめているだけかもしれません。
飼い主さんとたくさんの楽しい時をすごし
生まれる時にかけた寿命のタイマーがなって
肉体の期限が来たから
あちらの世界にかえってゆく
そんな仕組みだとしたら
平均寿命より早い死だから
病気や事故で亡くなったから
最期に苦しんだから
辛い生涯になってしまったのかな、など
ペットの最後の姿で
どんな生涯だったか判断するなんて
おかしなことです。
死に方に良い悪いなんてなく
すべての亡骸は彼らがこの世で残した
最後の美しい姿なんですから。
この世でのセルフタイマー
わたしの最愛の猫は13年半という
猫にしては短めの生涯を約4年前に閉じました。
わたしの人生において彼女は
一番の宝物であり
人生の救世主的な存在であり
彼女が母の面倒をしっかりみてくれていたおかげで
わたしは母から遠く離れて
好きなことをすることができました。
彼女を保護した命の恩人の…はずのわたしにさえ
抱かれる事が嫌いな猫でしたが
不思議と母だけには抱くことを許していて
彼女から特別扱いを受けた母は
はじめは猫は苦手と言ってたわりに
なくてはならない存在になる程
可愛がっていたようです。
彼女が亡くなる数日前に突然様子がおかしくなったそうで
わたしは彼女の死に目にあえず
火葬前の姿をビデオ通話で見たのが最期でした。
わたしの代わりに約10年間面倒を見てくれた
母に感謝するかたわら
どうしても
「わたしだったらもっと早くに異変に気づいて
長生きさせてあげられたのに」
母の適当すぎるところを見るたびに
もっと長く生きられたはず、なんて
エゴの塊が頭をグルグルしてました。
猫の死をきっかけに帰国を考え始めて
今は日本に戻りましたが
写真家のおじさんの話を聴いて
あらためて今思います。
彼女はわたしのいない10年間
家族ととっても幸せだったはず。
そして彼女がかけておいた
今世でのセルフタイマーが鳴ったので
慌てて病気になって
次に生まれ変わる準備に入ったんだな
と思ってます。
彼女はわたしと
わたしの家族を救うために来てくれたんだなあと
今も感謝しています。
火葬前の彼女にビデオ通話で伝えた
「また必ず会おうね」
彼女に届いてるといいけど。
あらためて「死」というものを
考えた日でした。