七回忌の法要
先週11/12は母方の祖父の命日。
7年前の11/11の誕生日を迎え他界したのはホヤホヤの91歳。
少し早めの11/3 に七回忌の法事を行いました。
父は体調が悪く行けませんでしたが、母と弟家族3人とわたしで福島県の山奥へ。
遠くに暮らす私たち姉弟に遠慮してか、
法要は母一人でやらなければかもと勝手に覚悟していたようで
それに比べたら私たちと現地のいとこ親子の合計8人となり当初より賑やかに。
栃木県内の駅で皆が集合して弟の車で一路母の故郷へ。
色づいた山々を見つつ、紅葉がいい時期だね〜と話も弾み
予定より少々遅れてしまいましたが2時間半かけてようやくお寺に到着。
和尚さんといとこ親子がお待ちかねでした。すみません!
「おじいちゃん」との思い出
「おじいちゃん」というと私たち姉弟にとっては母方の方が身近です。
父は北海道出身で父方の親戚には頻繁には会えなかったため
母方の方に子供の頃から必ずお盆とお正月の年に2回は会いに行っていました。
母の実家は曽祖父の時代から商売を営む本家だったので
大家族というだけでなく常におうちにはお客さんやら親戚やらで賑やかでした。
近所の人たちが大勢集まる集会所的な役割をしてたのか
母が子供の頃はお正月などは獅子舞が見せ物をしに来てくれたりしたそうです。
わたしは祖父の明るく話してくれる戦争の話を聞くのが好きでした。
満州に兵隊で行った時
たまたま首から落ちたタオルを拾ったおかげで鉄砲玉を避けて命拾いした時の話。
ベトナムの捕虜先で
パラシュートをまとってアメリカ兵と踊った話。
家族にもう死んだと思われていたため、生きて帰ってとても驚かれた話。
おじいちゃんの話を聞いていると不思議な時間の感覚になるのが好きでした。
三人兄弟の長女の母には妹・弟が一人ずついて
二人は祖父よりも先に他界しています。
元気だった祖父の痴呆が進み始めたのはその頃だったでしょうか。
一緒に住んでいた叔父が他界したあと叔母が通って面倒を見てくれましたが
その叔母も他界。
その後は長い間老人ホームでの生活でした。
痴呆を患ってからの祖父には一度帰国の際に面会しましたが、
もうわたしを覚えておらず。
覚悟はありましたがやはりショックでした。
そして7年前の秋、
おじいちゃんの訃報をアメリカで聞きました。
母の計らいもあり、お葬式は残った親戚でするからとのことで
私は遠い空からのお別れとなりました。
何年かして、かつて賑やかだった母の実家は取り壊され
殺風景になった土地は太陽光発電の会社に売却。
生まれ育ったふるさとがなくなるって
どんなに悲しく寂しいことだったかと思います。
私にはまだ実家がなくなることは、想像ができません。
母の故郷であると同時にそこは、
私たち姉弟の故郷でもあります。
取り壊される事を聞いた時は、大事な思い出が削がれるようで心が痛いものでした。
目に見えないものはもうないの?
実家が壊されたことで
「母は帰る故郷がなくなっちゃった。」
と言っていました。
確かに物理的に家がなくなり
親兄弟が亡くなり
長年見てきた形が見えなくなってしまいました。
でも肉体がなくなったら、全部なくなってしまうのでしょうか?
そんなことはないと思うんです。
生まれ育った故郷、家、家族、友人
形は無くなってもそのものの存在したエネルギーは
そんなに簡単には消えないのではないでしょうか。
いつもたましいではつながっていると思うのです。
実際に見える形や触れるものなど
五感だけが全てではない
それ以外でつながってるんだと感じます。
昔はそんなのきれいごとだ!
と思っていましたが、
今は真実だと心から思います。
そして、そうであって欲しいと思います。
時が流れて、私たちは歳をとる。
かつてあったものがなくなり新しいものが現れる。
きっと人生の中でも
見たり聞いたり触れたりと五感で確認できなくなってしまったものへの心の処理というか
エネルギーへの理解が一番難しいところなのかもしれません。
里帰りのおみやげ
偶然にも母の小学校の幼なじみ達が連絡をくれて、
法事の後母に会いに来てくれました。
久々の再会に、母の寂しい気持ちもどれだけ和らいだでしょうか。
「立ち寄るところはなくても私たちがいるから、いつでも声かけてね」
と優しい言葉をいただいていました。
せっかくだからと遠回りして
母の実家に来た時はいつも立ち寄っていく、山の上のお不動様にお参りに行きました。
境内はちょうど紅葉の見頃を迎えカメラを構える人も多く
紅葉を楽しむ人であふれていました。
「わあ〜きれい!」
と口々に感嘆しながら
しばしの間、鮮やかな紅葉と苔むした緑のコントラストにとても癒された時間です。

昔にくらべたら寂しくなってしまった母の里帰り。
でも、これからもこの紅葉は毎年変わらず私たちを癒してくれるでしょう。
もしかしたらこの紅葉は
木々が色づく綺麗な時期に亡くなったおじいちゃんからの
母へのおき土産かもしれませんね。
